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コラム column

2021年8月27日

スポーツ

「ドーピングはなぜダメなのか?」

弁護士  小林利明 (骨董通り法律事務所 for the Arts)

1 はじめに

賛否両論と混乱の中で開催された東京2020オリンピック。ダイバーシティやインクルージョンというキーワードが強調され、自分とは異なる属性や価値観を受け入れることの重要性が説かれる一方で、SNS等を利用した排他的・差別的メッセージや誹謗中傷が社会問題として改めて顕在化しました。その他にも、女子競技ウェアの露出が多く性的視線を招くとの抗議、選手のメンタルヘルスの問題、トランスジェンダー選手の出場など、近時注目を浴びているスポーツ界の話題が一堂に会し、世界的注目を集めました。

他方で、今大会でもこれまでと同じだったものもあります。ドーピングです。ドーピングは禁止されていますが、なくなりません。ある記事によれば、競技者が興奮剤をドーピング目的で使用していたという古代ギリシャ時代の記録も残っているそうです。ドーピングはなぜなくならないのでしょう。そしてなぜ禁止されるのでしょう。

近代スポーツにおいてドーピングがなくならない理由は、あまり難しい問題ではありません。しかし、なぜ禁止すべきなのかは、考えてみるとちょっと難しい問題ともいえ、NHKで放送された「ハーバード白熱教室」でも有名な政治哲学者マイケル・サンデル教授もその著書で取り上げて議論しています。今回のコラムでは、皆さんと一緒にこの問題を考えてみたいと思います。

※今回のコラムの執筆にあたっては、『完全な人間を目指さなくてもよい理由』(マイケル・J・サンデル著、林芳紀・伊吹友秀訳、ナカニシヤ出版、2010)の第2章「サイボーグ選手」と、『問いかける法哲学』(瀧川裕英編、法律文化社、2016)所収の「ドーピングは禁止すべきか」(米村幸太郎執筆)に掲載されている議論を参考にしています。

2 ドーピングはなぜなくならないのか

陸上短距離走金メダリストのベン・ジョンソン、サッカーのマラドーナ、ツールドフランスのアームストロング、メジャーリーグの複数のスター選手など。。。無名選手がドーピングにより結果を残そうとする例もあれば、著名選手がさらによい結果を求めて使用する例もあります。

ドーピングはなぜなくならないのでしょうか。

答えはシンプルです。アスリートにとっては良いパフォーマンスを出すことがその後の経済的成功に如実に影響するからです。要は、生活がかかっているということです。アスリート個人だけではありません。周囲のスタッフの経済的成功にも影響します。選手に知らせずにコーチが選手に禁止薬物を投与した実例からもわかるように、良い競技成績を残すことは、選手とその関係者に莫大な富と名誉をもたらすため、それがドーピングの誘惑となるのです。

科学技術の進歩により、日々新しいドーピング手法は進歩し、発覚しにくい手法も開発されています。たとえば、血液ドーピングといわれる手法は、自らの血液を事前に一定量摂取し保存しておき、試合直前に体内に再注入することで、一時的に体内の赤血球を増やし酸素供給量を増やす方法であり、禁止薬物を体内に入れるわけではありません。また、ゲノム編集技術を使い遺伝子レベルで直接人体に働きかけを行う遺伝子ドーピングなどの手法も存在します。

前掲「ドーピングは禁止すべきか」には、ドーピングで金メダルをはく奪されたベン・ジョンソンのコーチが、「巨額の報酬を前にして、薬を飲んで勝つか飲まずに負けるか、『選択の余地はない』と述べた」というエピソードが掲載されています。科学技術の進歩によってドーピングがバレにくくなったということは、より誘惑に負けやすい環境ができたとも言えます。

3 なぜドーピングは禁止されるべきなのか

(1)ドーピングしないと約束したから?

しかしなぜ競技に出場する選手がドーピングを行うことは禁止されているのでしょう。競技に出場するにあたり、ドーピングしないことに同意したからでしょうか。
たしかにそれはそうです。ただこの説明は、「使用しないと約束したから約束を破ってはいけない」というにすぎず、なぜ使用してはいけないのかに対する答えではありません。

(2)健康を害するおそれのある成分の使用を禁止する必要があるから?

では、ドーピングはその成分の摂取量次第では副作用により健康を害する場合があるので、競技者の生命身体を守るために競技主催者として禁止すべきだ、という安全性の観点から正当化することはできるでしょうか。

たしかに禁止薬物の過剰摂取は医学的にも身体に重大な害悪を招くとの研究結果が公表されています。脳梗塞や心筋梗塞リスクが増大し、女子選手に男性ホルモンの投与を続けた例では、その後、性同一性障害となり性転換を行った例もあるそうです。しかし、安全性の観点が理由だとすれば、成年がその効能と危険性を自ら理解したうえで、身体にほとんど負担をかけない程度の質・量の特定成分を摂取することまでも、一律・全面的に禁止する理由になるでしょうか。たばこや酒の過剰摂取は健康被害をもたらすと言われますが、だからといって、成年がたばこや酒を嗜むことを一律全面的に禁止することは行き過ぎだと思う人が多いでしょう。

ドーピングとして禁止される薬物は、WADAあるいはJADAという組織が定める一覧表に記載されるものですが、それには競技大会の場面においてのみ使用が禁止され、それ以外の場面では使用が禁止されない成分もありますし、たとえ広く一般に流通している市販かぜ薬であっても禁止成分が含まれていればドーピング規則違反として処分対象になります。ですから、健康被害を理由にドーピングが禁止されているとはいえなさそうです。

(3)ドーピングを認めると競技の公平性が損なわれるから?

それでは、一部の者にドーピングを認めるとパフォーマンスが上がりフェアな競争ではなくなるという公平性の観点から、ドーピングの禁止を正当化できるでしょうか。

この理由は一見しっくりくるようにも思えます。しかしこの理由付けはある種の矛盾をはらんでいます。というのも、特定成分の摂取を禁止したからこそ、摂取した人とそうでない人とで差が生じるからです。そもそも、特定の成分の摂取が禁止されていないならば、そこにはドーピングという概念も存在せず、全員が特定成分を摂取する機会を得たうえでの「フェア」な競争が行われることになります。そうすると結局、公平性の観点からの理由付けは、ドーピングをする人としない人が同じ競技に出場するのはフェアではないというにすぎず、なぜドーピングが禁止されるべきかという問いには十分に答えられていないようにも思われます。

とはいえ、スポーツにおいてフェアかどうかという視点を持ち込むことは説得的に思えます。

そこで翻って考えると、この文脈におけるフェアとは何でしょうか。上記のとおり、ドーピング禁止のルールを守る人と守らない人との間に不公平が生じるという意味でのフェアネスならば、競技参加者は全員ドーピングしてよいという前提で競技が行われるならば、それはそれでフェアだということになってしまいます。

「テクノロジー・ドーピング」という言葉がありますが、パフォーマンスをアップさせる用具を使用する場面を考えてみましょう。厚底シューズや水の抵抗力の低い水着などは、体内に摂取するものではありませんが、技術の力を使い、それ以外のシューズや水着よりも早く走れ、泳げる用具です。これらの使用を禁止した場合、そのルールに違反してそれらを使用した選手は、いわば「ドーピング」でしょうが、全選手がそれらを自由に着用してよいという前提であれば、誰もそれを「ドーピング」とは言わず、そのウェアを選んだ人とそうでない人とで競技に不公平が生じているなどと言わないでしょう。

(4)「フェア=全員が同じ条件で競技すべき」は幻想

そもそも、フェア=「全員が同じ条件で競技すべき」ということだと考えるならば、それは幻想にすぎません。人間のDNAは生まれながらにして異なるからです。人種・性別による差はもちろん、同じ日本人であっても、遺伝的にもって生まれたDNAで筋肉量や骨格は異なるので、後天的な努力では克服が極めて困難な差があることは認めざるを得ません。

さらには、選手ごとあるいは国ごとの経済格差も現実には無視できません。実際に、東京オリンピックでは、競泳用トレーニングプールのない国から競泳に参加したオリンピアンもいました。しかしだからといって、その格差が競技そのものの公平性を損なうものだと考える人はほぼいないでしょう。甲子園でいえば、降雪の多い地域の高校はグラウンドを使った練習機会が限定されるため、そうでない地域の高校と比べて不利だといわれることがあります。しかし、それが有利不利を超えて、高校野球の競技としての公平性を損ねるという人はいないでしょう。

(5)生来的な個体差を是正するために「逆ドーピング」をさせることは公平?

上記で見たとおり、DNAレベルの個体差、経済格差、環境格差など、一定の種類の格差については、その差は競技としての公平性を損なうものとは考えられていません。むしろ人々は、DNAレベルの個体差は違って当然と考えているはずです。

しかし、それと矛盾するように思われることも現実には起きています。
たとえば、生来的・遺伝的に(筋肉量に影響するホルモンである)テストステロン値が高い女子陸上選手とそうでない女子選手との差は、単なる個体差にすぎないともいえそうです。しかし現実には、テストステロン値が一定の基準値以下でなければ女子選手としての出場は認められないというルールも存在します。そして、あるカテゴリーへの出場資格を得るためには、所定の基準を満たすためにホルモン療法などを行い、テストステロン値を一定以下に下げる必要があります。

ロンドン・リオ大会の中距離走金メダリストであり、生来的にテストステロン値が高いCaster Semenya選手は、そういった基準を設けることは不当だと裁判で争ったものの、基準が撤回されることはなく、事実上、陸上選手としてのキャリアが閉ざされています。また、報道によれば、Christine Mboma選手は、東京オリンピックで400m走に出場する準備を進めていましたが、今年7月になり自身のテストステロン値が400m走に出場するための基準値を超えているので出走資格がないと通知されました。その結果、同選手のテストステロン値でも出場可能な200m走に出場することになりましたが、そこで銀メダルを取得し議論を呼びました(同様の立場でやはり200m走に出場することになったBeatrice Masilingi選手は6位でした)。

また、ホルモン療法を行い体内の男性ホルモン値を基準値以下に抑えることで身体能力を下げる(いわば「逆ドーピング」を行う)ことにより女子選手としての出場資格を得たとしても、東京オリンピックでトランスジェンダーとして初のオリンピアンとして耳目を集めた女子重量挙げのローレル・ハバード選手の例を挙げるまでもなく、現実問題として、男性だったときに培われた筋肉量などの点で不公平さがあるという指摘は根強く残っています。

結局のところ、私たちが思っていた競技の公平さやフェアネスというものは、思っていたほど普遍的・客観的なものではなく、大会主催者による人為的な線引きによって同じカテゴリーに入れられた者だけで勝負をすること、という程度のものにすぎないのかもしれません。競技の公平性を突き詰めれば、属性ごとに細分化したカテゴリーを設けることも考えられるでしょう。しかしこれはダイバーシティ&インクルージョンという方向性とはむしろ逆を向いているようにも思えます。

(6)サンデル教授によるドーピング禁止の根拠とその射程

サンデル教授は、人間がスポーツに期待するのは、人間が生来的に与えられた能力の限界を受容したうえで自らのパフォーマンスを最大限に高めようとする「美徳」であり、ドーピングはその生来の能力を改変させてしまう点においてその美徳を損なうから、ドーピングは禁止される、と説示します。たしかに言われてみれば、優れたアスリートに対して、「すごい!人間離れした超絶パフォーマンス!」などと思うとき、無意識に、人間であればこの程度しかできないのが普通であり、それを生来の才能と練習によって乗り越えたからこそ、人間なのに人間離れしていてすごい、と、漠然とした通常の人間の能力を基準に「すごさ」を図っていたかもしれません。

4 あなたにとっての価値とは何ですか?

実は、スポーツの場面のみならず、音楽の場面でもパフォーマンス向上のための薬物摂取は行われています。舞台上の緊張に悩む一部の演奏家は、緊張緩和のために(合法な)鎮静剤を服用し、その結果、極度の緊張で手が震えることもなく、落ち着いて良い演奏ができるそうです。この鎮静剤の使用は禁止されるべき「ドーピング」でしょうか。たとえば、皆さんが世界的に大人気の演奏家Aのファンであり、運よくコンサートチケットを買えたとして、コンサート当日、Aが何らかの事情で普段は感じない極度の緊張に襲われていたとしましょう。皆さんが聴きたいあるいは観たいのは、鎮静剤を服用していつもと変わらぬ良いパフォーマンスをしているAでしょうか。それともやや手が震えている様子でいつもと様子が違うAのパフォーマンスでしょうか。鎮静剤の摂取によって、あなたが期待するAの演奏の価値は下がるのでしょうか。

これまで見てきたところによれば、ドーピングが禁止される理由は、それによって人々がスポーツなり演奏なりに求める価値(サンデル教授のいう美徳)が損なわれるからという点にあると一応いえそうです。しかし、仮にそうだとしても、「人々が求める価値」ないし美徳は誰がどうやって決めるのでしょうか。

もし、サンデル教授のいうように、人間の生来的能力の限界を受容したうえで自らのパフォーマンスを最大限に高めようとすることが、人々がスポーツに求める美徳ないし「求める価値」だとするならば、人為的にテストステロン値を一定以下に下げさせたうえで競技をさせるという国際陸連が決めたルールは、美徳の実践に資するものとはいえないでしょう。国際陸連のルールを美徳という観点から正当化するためには、サンデル教授が考える美徳とは異なる美徳の提示が必要なように思えます。

また別の例を挙げましょう。パラリンピックにおいては、先天的あるいは後天的に障碍を有する選手が、義足や義手、車椅子の補助を得て競技に出場します。サンデル教授がスポーツの美徳として説明した「人間が生来的に与えられた能力の限界を受容したうえで」という前提は、ここでも当てはまらなさそうです。しかし、車椅子バスケなど、パラスポーツを一度でも観戦したことがある人であれば、それらがいかにオリンピック競技と同様にあるいはそれ以上に人々を魅了する競技であるかは知っていると思います。人々が魅了されるのは、そこに何らかの価値ないし美徳を見出しているからだといえるでしょう。つまり、サンデル教授がいうスポーツの美徳も、すべてのスポーツに当てはまる唯一絶対の美徳ではないのです。

ではパラスポーツにおいて人々が美徳と感じるもの、換言すれば、パラスポーツの魅力とは何でしょうか。折しも、パラリンピックが8月24日から9月5日まで開催されています。会場で見ることができないのは残念ですが、興味がある方は、ぜひ試合中継を見て考えてみてください。そして、興味をもった競技があれば、世の中が落ち着いたときには、ぜひ銀座ではなく競技会場に足を運んで観戦してみてください。

以上

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