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コラム column

2019年10月18日

(2019年10月24日追記)

文化・メディア裁判その他の実体法

「著しく不完全な『表現の自由』論争史
      ~公開中止・会場使用許可・公金支出を中心に」   

弁護士 福井健策(骨董通り法律事務所 for the Arts)

という訳で、会期終了まで1週間というギリギリの時期に「表現の不自由展」が公開再開され、あいちトリエンナーレ2019は幕を閉じた。この2月半、まさにメディア上は「あいトリ祭り」と言って良い報道・論争が続き、多くの団体が声明を発し、緊急集会を開催した。
ここまで表現の自由に人々の関心が集まることも滅多にないだろうし、この機会に表現をめぐる裁判と論争史を概観しようかなと思い立った・・・いやいや無理。わいせつ・ヘイト・プライバシーから政治ビラ・パロディまで、対象も裁判の種類もあまりに膨大で到底筆者の手には負えないし、そもそも紙面が足りなすぎる。そこで、今回は主に劇場や美術館のような「パブリック・フォーラム」の使用許可、公開の中止、そして話題沸騰の「助成金」を巡る主要な表現裁判・論争に絞って眺めてみよう。

まずは①使用許可をめぐる代表的判例と言えば、泉佐野市事件(1995年・最高裁判決)だ。市民会館の使用許可申請があったが、市側はいわゆる過激派主催の反対集会であり他の集団の押しかけなど混乱の恐れがあるとして、使用を許可しなかった(以下事例は裁判所の認定による)。「パブリック・フォーラム」に民間施設がどこまで入るかは議論があるが、少なくとも市民会館はその典型だろう。地方自治法の「公の施設」として、市は正当な理由がない限り住民の利用を拒否できない(244条)。裁判所は、①集会の自由の重要性に照らして、利用を拒否できるのは、身体や財産が侵害され公共の安全が損なわれる「明白で差し迫った危険」が予見される場合に限られる、また、②主催者が平穏に集会を開催しようとしているのに、反対派が一方的に妨害に及ぶ恐れがあるからといって利用を拒めない、とした。その上で、このケースでは「過激派団体間の衝突が実際に予想される」として、不許可は適法としている。

もっとも、上記は民間集会のための使用許可のケースである。では、あいトリのように、自治体や公の施設側が主催者の場合はどうだろうか。前提として、アーティスト側が公的な施設に対して「私の作品を所蔵・展示せよ」と要求できる法的権利までは、なかなか認められないだろう。場所も予算も限界があり、そうした要求にすべて公平に応えることは、恐らく無理だからだ。
しかし、②いったん公開した後の中止はどうか。まさにあいトリをほうふつとさせる著名なケースに、富山県立美術館事件(2000年・名古屋高裁金沢支部判決)がある。ここでは天皇の写真をコラージュした作品が議会で問題視され、美術館はいったん購入・展示した作品の非公開を決めた。不満な住民は、特別観覧の許可などを求め、美術館側は拒絶。裁判となった。裁判所は「公の施設」であるので観覧の拒絶には正当な理由が必要と述べたが、「管理運営上の支障を生じる蓋然性」があれば広く正当な理由が認められる立場をとった。その上で、展示への「執ような抗議、右翼団体による街宣、図録破棄、知事への暴行未遂」などが起きていたことを重く見て、「平穏で静寂な館内環境を維持するため」などとして非公開措置を適法と認めている。
もっとも、さすがに措置の理由がはっきり「著者の思想・信条への否定的評価」では難しい。船橋市西図書館事件(2005年・最高裁判決)では、司書がストレートにそうした理由で「新しい歴史教科書をつくる会」メンバーなどの書籍を107冊廃棄してしまう。裁判所は、公立図書館でいったん公開された以上著者には一定の法的利益があるとして、廃棄処分の違法性を認めた。他方、2012年頃から松江・鳥取の学校・図書館などで起きた漫画「はだしのゲン」の閉架化は、過激な描写を理由に希望者のみに閲覧させる一種のゾーニングとも言え、より複雑な論争に発展した。
まさにあいトリでも問題となった、「特定の思想・信条を理由とする展示中止圧力か」「テロ予告など会場での混乱を防止するための中止か」が法的にも大きな分岐点になりそうな中、今回実行委員会は、混乱防止の措置が整ったとして展示再開に踏み切ったことになる。

そして大きな論点は③助成金の不交付決定だ。あいトリでは、「批判・混乱が予想されながら申告がなかった」との理由でいったん採択していたトリエンナーレ自体への補助金7800万円を全額不交付という、ある意味わかりやすい文化庁の対応に芸術文化界が沸騰した。というか沸騰している。
日本では、知る限り補助金と芸術表現の自由をストレートに扱った判例は見当たらないが、実は、これは30年前に米国で(日本で言えば文化庁の主要部門がひとつ潰れかねないレベルの)大論争になっている。論争の主は、日本でも最高裁判例にもなった「表現論争キング」ロバート・メープルソープだ。1989年42歳で亡くなった世界的な写真家。その、ホモセクシャリティやサディズムの色彩の強い作品群の回顧展が、米国での芸術助成を主要に担うNEA(全米芸術基金。当時の年間予算額200億円超)の助成を得て行われようとした矢先、「こんな不道徳な作品に税金を?」と議会や一部会場で問題視された。
「どんな芸術が公的助成にふさわしいか」「公金支出をしないことは表現の自由への抑制か」となって全米が割れる論争に発展。保守派の批判が強まり、NEAは数年後に予算を約半減近くにまでカットされてしまう。その結果NEAでは、政治・倫理論争に至りそうな作品への助成を控える傾向が強まったとも言われ、また少なくないアート系NPOは財政危機に直面した。(筆者は90年代後半、米国のアート支援NPOで数ヶ月インターンとして働いたが、当時の現場の合言葉は「サバイバル」だった。)これに対して、逆にリベラル派や芸術界から「”穏健”な思想・政治的立場の優遇につながる」との反論が起き、オバマ政権下でNEAの予算は概ねもとの水準に回復。しかし、その後も論争は続き、現在トランプ政権はNEA解体を目指しているとされる。まさに現在進行形だ。
米国でアート支援への公金支出が議論を呼んで来た背景には、政府による芸術文化助成が手厚いヨーロッパに比べて、アートを含む非営利活動・不採算部門への支援は年間30兆円を超える巨大規模の個人寄付(うち芸術文化向けは2017年度で約2兆円)などが支えて来た歴史がある。人口あたりで日本の10倍以上もの個人寄付額を支えるのは、言うまでもなく手厚い優遇税制であり、政府には「既に税免除という形で巨額規模の文化支援を間接的におこなっている」という自負があるのだろう。

政府の直接影響を排しつつも助成金による支援中心のヨーロッパ(特に独仏)と、税制優遇のもとでの個人・企業の寄付金中心の米英。規模では、そのいずれにも遠く及ばない日本。
さて、日本における芸術文化助成の役割は何で、その対象は誰が選択すべきなのか。一部作品への批判と対処を理由に芸術祭全体への補助金も取り消されるとすれば、どうやって情報の多様性と社会の活力を守って行くのか。これは恐らく究極的には法律問題ではなく、日本の我々の選択だろう。この議論は、まだまだ終わりそうもない。


【追記】折から、文化庁所管の日本芸術文化振興会(芸文)が補助金の交付要項に加えた一文が報道された。関係者不祥事など「公益性の観点から不適当な場合」に不交付を可能にするという。きっかけは、映画『宮本から君へ』が出演したピエール瀧の事件により、内定していた補助金の取消しを受けた件という。「助成により国が薬物を容認するようなメッセージを発する恐れ」が理由だ。
そうだろうか。『宮本から君へ』のストーリーは、薬物とは何の関係もない。何かあるとすれば、主人公宮本の中で全編出まくっているアドレナリンくらいだ(冗談だ)。撮影は昨年10月には終了しており、犯罪事実を承知でピエールを出演させたという情報もない。
関係者が話し合いを重ねて公開に踏み切り、ついに先日公開にこぎ着けた本作は、観客の高い支持を得ている。だが他の場合なら、数百名の関係者が関わった作品でも、こうした不交付が引き金で公開が見送られた可能性は十分にあったろう。 恐らく、もっとも人々に衝撃を与えたのは、印象論のような理由で予算に組み込まれていた補助金を取り消され、作品が封印される恐れがこんなにあっさりと示された事実と、それを支える助成する側の「空気」なのだろう。
なお、関係者の不祥事と作品自粛については、こちらの「不祥事×作品封印論 ~犯罪・スキャンダルと公開中止を考える」でも述べた。


(本稿は、日本劇作家協会報『ト書き』に掲載予定の原稿に、同協会の了承を得て一部加筆の上先行公開するものです。)

以上

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