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コラム column

2019年4月 4日

文化・メディア契約

「不祥事×作品封印論 ~犯罪・スキャンダルと公開中止を考える」

弁護士 福井健策(骨董通り法律事務所 for the Arts)

(本稿は、日本劇作家協会発行『ト書き』掲載予定の連載原稿を、タイミングに鑑みて若干加筆して先行掲載するものです。)

「スキャンダル自粛」やまず

「自粛」をめぐる取材を、いくつか続けて頂いた。
今年だけでも新井浩文(『GO』『真田丸』『下町ロケット』)、そしてピエール瀧(電気グルーヴ、『あまちゃん』『64(ロクヨン)』)と、主役級の大物バイプレーヤー(どんな日本語だ!)の逮捕報道が続いている。犯罪に限定しなければ芸能人のスキャンダルなどは日常茶飯事であり、そしてもうひとつ日常茶飯事になりつつある光景がある。作品自粛だ。

新井の『台風家族』(草彅剛主演)、ピエールの『アナと雪の女王2』(オラフ声役)など、公開間近の作品が自粛・差し替えに至るのはともかく、上で挙げたような代表作・超名作たちも少なくない数が「ネット配信停止」「CD・DVD回収」を早々に発表された。そして、こうした過去の出演作の「封印」に、ネット・メディアでは多くの疑問が寄せられた。例えば劇作家の鴻上尚史さんはTwitterで、「出演者の不祥事によって、過去作品が封印されるなんて風習は誰の得にもならないし、(中略)ただの思考停止でしかない」とつぶやき、数万規模でリツイートされた。

その後、東映などが同じくピエール出演作である『麻雀放浪記2020』の公開を決断するなど、報道と議論は続いている。今回は、この「スキャンダル自粛」を掘り下げてみよう。

なお、念のため書いておけば、作品が公開中止となり一番悔しく辛いのは、中止を決めた当の製作者など関係者だろう。以下、それは肝に銘じた上で検討を続けたい。

法的な整理:スキャンダル降板・自粛は義務なのか?

まずは法的な整理から。多くの出演契約には(いや時には脚本・演出契約にさえ)「犯罪、公序良俗違反、信用を失墜させる行為は行わない」といった規定が存在している。仮にそうした規定がなくても、本当に俳優やスタッフが犯罪や公序良俗違反の行為をして、その直接の結果として作品の公開や舞台の公演中止が避けられなくなれば、恐らく立派な契約違反だ。それによる損害の賠償責任などを負うこともあり得る。
では公開中止は常に「避けられない結論」なのか?いや、通常は仮に犯罪行為が事実であったとしても、児童虐待や盗作のように作品そのものの中に違法の要素がある場合を除けば、それによって公開中止や公演中止が義務づけられる訳ではない。

とはいえ、現在のネット世論はそんなに甘いものではない。「反省がない」「被害者側の感情に配慮すべき」「犯罪行為を是認するのか」といったサイバーカスケードが起きることは想像にかたくないし、中止しないことのリスクやデメリットが無視できなくなってしまうケースもあるだろう。その場合、法的な義務はなくても現実問題としては、新作の公開中止や舞台からの降板がやむを得ない場合もありそうだ。
(無論、「犯罪など事実無根だ!」というときは別で、この場合は事実確認/時間との闘いという、更に難しい課題に現場は直面する。)

過去作品の封印は必要なのか?

では、進行中ではなく過去の作品はどうだろうか。なにせ今後の公開作品と比べて通常、ひとりの出演者が関わった過去の作品は膨大だ。引っ張りだこだった新井浩文の場合、逮捕時までに関わった映画出演作だけで約70本もあったとされる。それらを果たして、またどんな基準で自粛するというのか。
ここでは、まさに鴻上発言にもあった通り、「制作側が踏んばれるか」どうかは大きいと思える。

第一に、多くの方が指摘する通り、出演者個人の過ちと、作られた作品は基本的には別な存在だ。
第二に、出演者はあくまで作品に関わる大勢の関係者のひとりにしか過ぎない。新井の70本の映画だけでも、主要な関係者は恐らく数千人規模だろう。その膨大な出演者・スタッフたちにとって、作品封印はかけがえのない生きた証を奪われることにもつながる。
第三に、一度公開された作品は社会の共有資産である。それはもはやスタッフやキャストだけのものではなく、現在の、そして将来の観客たちのものでもあるだろう。犯罪関係者を見て不快に思うという人がいるなら、そういう人が「見ない選択をできる」配慮は必要だ。しかし、作品から勇気を貰っている人々もいるはずなのだ。
付け加えれば、安易に封印してしまえば、その封印を解除するタイミングで苦労する可能性もある。恐らく、起訴され判決が確定する時、(実刑なら)刑期を終えるタイミング、など考えるのかもしれないが、例えば薬物犯の再犯率は高い。出演者が刑期を終えると作品を再公開し、その後、万一再犯で逮捕されたら、また公開を自粛するのか。
あるいは、社会的に薬物犯や性犯罪への批判が強い状態が続いていたら、その中であえて一度封印した作品の再公開に踏み切れるのか。

無論、犯罪は許されない。真実罪を犯したのであれば、その責めを負うことは当然だろう。その間、活動が出来ない期間が生ずることも十分あり得るし、だからこそ身勝手な行為の前に立ち止まる勇気は必要だ。

そうではあるが、過去に大きな過ちを犯したクリエイターや俳優は大勢いる。我々は不完全な、間違える生き物だからだ。仮に犯罪やスキャンダルの本人が関わる過去の作品が全て次々と封印されたら、どうなるだろう。三島由紀夫は、(あれが「過ち」だったかはともかく)最後は自衛隊本部を武力占拠するという盛大な犯罪で人生を締めくくっている。彼の著作をすべて封印するのか。例の葬儀花輪事件の大乱闘で逮捕された、唐十郎と寺山修司の作品はどうだろう。フライデー編集部を襲撃した北野武の全作品は封印されるべきなのか。サドは、ポランスキーは、花輪と言えば花輪和一はどうか。自分の不始末を題材にした『刑務所の中』などという不謹慎な、あんな傑作を発表し、あまつさえ映画化までして良かったのか?それとも、刑事裁判や刑務所に入っている期間だけ過去の作品にも連座で「贖罪」させ、それが終われば全て解禁で問題ないのか?

恐らく、こうした封印が常態化すれば、私達の文化と社会は大きな知の源泉を失い、情報の豊かさも活力もない場になりかねない。加えて、自粛によって高額に膨らんだ損害額の責任が、当人のその後の更生・社会復帰への大きな足かせになることも十分あり得る。

個人の責任は責任として、それと生み出された作品を区別する議論も、必要なように思う。それは、将来への文化資産として作品を伝えて行こうというアーカイブの思想ともつながるだろう。

以上

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