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コラム column

2021年12月28日

著作権出版・漫画

「ファストコンテンツって、悪いのか?
      ~「良い要約」と「悪い要約」を考えてみる~」   

弁護士  福井健策 (骨董通り法律事務所 for the Arts)

いや、今年は本当にコラムを書く時間がありませんでした。で、年末になってやっと、こうして自分の中に澱みのように溜まっていた「このテーマで書きたかった」を解呪している年末リベンジ戦な訳です。今回は、本を図解するタイプの「ファストコンテンツ」を考えます。

図解要約をめぐる論争

少し前、あるラジオ番組でファストコンテンツについての出演依頼を頂きました。
ファストコンテンツ。流行りましたね。有名なのは「ファスト映画」で、公開中の映画を画面のキャプチャやストーリーとか聞かせどころの台詞満載で数分の動画に仕立てて、YouTubeで見せるようなものが典型です。テキストベースもあります。これが逮捕されて、かなり社会問題になりました。まあ、この場合は無断でやればまず著作権侵害で間違いないでしょう。ただ、この番組のご依頼は、いわゆる「本の図解要約」だったのです。
まず当たり障りのなさそうな例をあげるとこれ。かのカール・マルクスの大著『資本論』をなんと実質3枚のスライドにまとめて説明しちゃったケース。恐らく数分で読めてしまう。こんな風に図を多用するのが特徴です。

図解要約の例

古典に限らず、特にビジネス書系で多いようですが、こういう図解要約をTwitterやYouTubeで紹介するのが、秋くらいにかけて流行ったのですね。で、ファスト動画が摘発された頃に図解系もメディアで取り上げられ、その是非がかなり論争になった。これこれです。

まあね。『資本論』の場合は、そもそもマルクスさんは140年も前に亡くなってますし、原著はドイツ語で2,600ページあって、おちゃめなイラストもない。著作権はもう切れてますし、仮に切れてなくても上の要約はセーフです。
というのも、著作権は、特徴的な表現じたいを守る制度です。その根底にあるアイディアや、ありふれた表現は守られないのですね。そのため、2,600ページもの原著から「これがエッセンス(=アイディア)だ」と思うことを数ページの図解にまとめるといった行為は、個別の文章表現をそのまま借り過ぎたりしない限りはセーフの典型例なのです。要約としての出来の評価は専門家に委ねるとして、著作権的には問題はありません。
ただ、こういう場所で叩かれていたケースは、例えば「うまく生きるコツをお得な50個セットで(早寝早起きは得だよ!とかですね)教えてくれるビジネス書を、20項目に絞って、原文には全くないイラストにして紹介する要約」などでした(一例)。その20の項目は、ほぼ原文の目次の言葉をうまく丸めたようなもの。
そうですね・・・このくらいだとちょっと微妙な判断になります。アイディアしか借りていないのでセーフな気もするが、20に絞ったとはいえ、目次の言葉をほぼ原著の順序で並べている。ただ、どうやら原著の中でも重複感があるなど、優先度が低いと判断した項目を落として絞っているのですね。
悩みましたが、私見ではギリギリ侵害にはあたらないか、と伝えました。

「要約」は人間活動に必須

すると、ちょっとだけですが、居心地の悪い間が流れたんですね。え?悪くないんですか?という感じです。そこで慌てて、いや、逮捕されたファスト映画などは場面キャプチャを含めて借り過ぎてて弁護の余地はないし、図解要約でもアウトのものもありますよと説明したところ、少し落ち着きました。そこで続けて、ただ、要約と名乗るものにはいわば「良い要約」と「悪い要約」があって、その仕分けが大事ですねという話をしたのです。

例えば、情報番組で、政府や民間の報告書(一応著作物です)をかいつまんで紹介することがあるじゃないですか。要約ですね。場合によっては図もつけます。あるいは大学の講義では、それこそ『資本論』どころかもっと現代の名著を取り上げて、学生にもわかりやすく要諦を教えますね。要約です。好きな映画やマンガのことを友人に教える。まあ、多少の要約は伴いますね。
というより、我々の頭脳で起こる記憶などの情報の処理は、つまり要約でしょう。全文まとめて覚えてそれを自由に引き出して使うということは、特殊な才能の持ち主でない限りは我々凡人にはできませんから、誰でも自分なりに「要約」して情報を処理しているはずです。
情報を学習し伝達し模倣する生物である人類は、要約なくしてはここまで来れなかった。福井健策も司法試験には受からなかったし、池上彰も偉くならなかった。もう言っちゃうとNo要約No人類
そこまで話したかは忘れましたが、本番はそんなお話をして無事に終了した気がします。

人々は何に怒っているのか

しかし、どうも引っかかる。じゃあ何が悪い要約なのか、人々は何に怒っているのか。著作権の議論だけでは済まない気がしたのですね。実際、見てみると論争はその前からあったようで、前述のような番組や記事では「パクリは許せない」「リスペクトがない」「批評がない単なるまとめはダメ」といった「許せん派」と、「要約は情報の入り口」「良い販売への導線になるのでは」という「要約いいじゃないか派」がいるのですね。
更に具体的な話として「旧作はいいが新作でやられると困る」「ネタバレはダメージが大きい」「削除要請が来たら素直に従うべきでは」といった発言もあって、あ、これは二次創作の議論ともつながるなと思ったのです。そこでは、付加価値と、そして市場での競合性が問題になる、と常々感じていました。
筆者はよく、「許せん、不快だ」という議論と法的な禁止をすべきかは区別しないと社会は危ないですよ、というようなことを書きます。それは本当にそうなのです。著作権侵害というのは法的な禁止ですから、もう国家の力をもってある表現(=情報)が禁止されて刑事罰まであり得る。これはすごいことです。ですからハードルが高いのは当然で、誰しも禁止やむなし、と思うようなレベルが求められます。
他方、「許せん、不快だ」は各自の価値観によって幅がある領域で、むしろ価値観は個々人で幅があってこそ正常ですね。そこでは健全で活発な意見交換こそが大切で、人々の「許せん、不快だ」が即座に表現禁止に直結するような社会は、控えめに言ってかなり危険です。

しかし、この両者の関係は多少複雑で、単に悪い方から順に「侵害=禁止>不快・非難>問題なし>ブラボー」みないな感じにはなっていないのですね。例えば、法的には侵害にあたるはずなのだが、人々は「問題なし~ブラボー」になっている領域もあれば、法的にはどうも適法なのだが、「眉をひそめる~炎上」になった領域がある。
純然と「不運だった」というほかない炎上事例を除いて、ざっくりと自分の独断でこの関係を整理すると、こうなります。

上側の表現借用は侵害、つまり違法にあたりやすい(引用のように明文規定があればセーフ)。他方、社会的な非難や反発は、その是非を問わず、右側の領域で生じやすい。つまり、著作権の法的な評価と社会の評価のずれは、この図の左上と右下で起きやすい気がするのです。

では、仮にそうであるとして、非難や反発が生じやすい「右側」と生じにくい「左側」では何が違うか。
すぐに思いつくのは付加価値の有無です。新たな創作性を原作に付け加える二次創作は、情報の多様化・豊富化という意味で社会的な付加価値と言えます。よく愛やリスペクトがあれば許す(逆にリスペクトがないのが問題)、という発言を見るのですが、この愛・リスペクトも、普通は受けた側の幸福感や作品の外部評価を高めやすいので、つまりは付加価値の一種だとも考えられそうです。
そして、この付加価値がある領域は、(多くの場合はですが)市場で原作との競合が起きにくいと思うのですね。市場で迷惑がない、付加価値がある、だから社会は温かい目でみる(作者も怒らないケースが確率的には高い)。先にあげた「旧作はいいが新作でやられると困る」「ネタバレはダメージが大きい(特にミステリー系ではネタバレは致命的)」などの意見は、つまり市場でのダメージの度合いとも言えそうですね。
あ、これフェアユースだな、とも感じます。詳しい方はお分かりの通り、以上は米国のフェアユースの議論と似ていますね。そこでは、借用する側による付加価値や原作への市場でのダメージは、かなりストレートにそもそもの侵害の有無の判断に影響を与えます。

こう考えると、個人の価値観と表現禁止が直結することの危険性は十分認識しながらも、なぜ人々が非難・反発するかの背景を解析し続けることは、著作権の明日を考える上でも大切であるように感じます。

NFTならぬ「非・代替性借用」

最後に付言をひとつ。市場でのダメージとは、別な言葉でいうと「代替物の投入」です。
つまり、無断で市場での代替物になるような模倣品を配布されると、当然ながら原作側はストレ―トに損害を受けるのですね。典型例は、海賊版です。ファスト映画や漫画のネタバレサイトには、本質において海賊版同然のものも多かったので問題になったのでしょう。
いってみれば「代替性に向けられた借用」です。逆に、付加価値があって、市場でダメージがない借用は、NFT(非代替性トークン)ならぬ「非・代替性借用」とでも言えるでしょうか。え?あんまり上手くない?いいです。

そしてその意味でいうと、ビジネス書が図解要約されて、かつ著者に大ダメージになるパターン(のひとつ)も見えて来る気がします。
辛口をいえば、「図解程度で代替されてしまいそうな本」です。例えば『資本論』は、3枚のスライドでまとめられても恐らく出版社は全然困らないと思うのです。完全に棲み分けていそうですし、むしろ良い導線になりそうだから。逆に、数枚の図解で要約されるだけで、もう元のビジネス書を読む値打ちはなくなってしまう、なんなら目次を見ればもう読んだも同然、という程度の本にとってこそ、図解は天敵なのかもしれないと感じたこの秋でした。

(まあ、代替物になるどころか、どうやったらこんなにダメな要約が作れるんだというケースもあって、それなどは別な意味で原作者には大迷惑なのでしょうが、軽口がだいぶ出たあたりで本日は撤収です。)

以上

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