2013年6月26日
「『開かれた著作物』と実演家」
弁護士 桑野雄一郎(骨董通り法律事務所 for the Arts)
著作隣接権という権利については,「著作物の創作者ではないが、著作物の伝達に重要な役割を果たしている実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者に認められた権利」という説明が一般的です。著作隣接権者の1人である実演家についても,著作物の伝達者として位置付けられています。
楽譜に忠実に演奏をするクラシック音楽の演奏家,脚本に書かれたセリフを語る役者などについては,「伝達者」という説明はわかりやすいかもしれません。しかし,著作物によっては単なる「伝達者」と位置づけられない場合もあります。今回は音楽におけるそんな場合について考えてみたいと思います。
1.ジャズと「編曲」
ジャズバンドのPE'Zが,佐藤眞氏の「混声合唱と管弦楽のためのカンタータ『土の歌』」の第7楽章「大地讃頌」を,ジャズバージョンに編曲した演奏を収録したCDを販売していたことについて,佐藤眞が編曲権及び同一性保持権の侵害を理由に仮処分申請をしたという事件がありました。最終的にPE'Zが今後演奏をしないこと,CDは出荷停止をすることで和解により解決をしています。
http://www.emimusic.jp/domestic/artists/pez/info.htm
「大地讃頌」は合唱曲としてとても有名で,私自身も中学生時代に歌ったのでよく覚えています。PE'Zのコメントをみると,彼らも学生時代にこの曲に接し,感動を覚えたことからバンドとして演奏しようと思ったようです。
今回問題となったのは編曲行為ですが,ご承知のとおり,ジャズの世界では「編曲」という行為も日常的に行われています。トリオ,カルテット,クインテット,セクステット,さらにはビッグバンドとバンドの編成が変わればそれに応じた編曲が行われますし,編成が同じでもバンドに応じて様々なアレンジがなされています。
しかし,そのような行為について,「大地讃頌」のように編曲権や同一性保持権の侵害が問題となったという話は聞いたことがありません。
そもそもジャズにおいては,楽譜に忠実には演奏されないのが一般的ですし,「編曲」を伴わない「演奏」も行われないのが通常ですので,「編曲」行為については作曲家が包括的に許諾をしていると考えるのか,作曲された楽曲自体が「編曲」を予定した,ある程度幅のある(後述する「開かれた著作物」)なので,そのような「編曲」はそもそも「編曲」とは考えないのか,著作権法的にはそのどちらかの説明になるように思います。
逆に,そのような事情のないクラシックや合唱の世界では,著作権者に無断で楽曲を編曲するのはもちろん許されないということになります。むしろ,ジャズの方が少し特殊な世界なのかもしれません。なお,秋吉敏子さんがバッハの「G線上のアリア」をラテン調に編曲したように,ジャズの世界でもクラシックの曲を編曲することもありますが,それは保護期間が終わりパブリックドメイン(PD)になった曲が基本です。
コメントを読む限りPE'Zも決して悪意があったというわけではないようですが,ジャズの世界の常識が音楽の世界全体の常識ではないということについて,注意が足りなかったかもしれません。
そして,このようにジャズの世界で「演奏」に際して行われている「編曲」を著作権法上の「編曲」と捉えるとすれば,実演家は単に作曲家の作曲した曲を伝達するだけの存在ではなく,編曲により二次的著作物を創作している者,というべきではないか,という疑問がわいてきます。
2.ジャズと「アドリブ」
ジャズの醍醐味の一つにアドリブ演奏があります。原曲のコード進行を踏まえて(その意味では完全な「即興演奏」とは少し異なります)演奏家によってアドリブ演奏が行われるわけです。ジャズにおけるアドリブ演奏について,ここで音楽的な説明をする知識を私は持ち合わせておりませんので,これ以上は触れないことにしますが,ともかくジャズの楽曲は,もともとそのようなアドリブ演奏が想定されていますので,実際にどのような音色が奏でられるのかが演奏家に委ねられているという側面があります。いわば,演奏家によって補充・補完されることを想定して,ある程度幅,ブランクが設けられている「開かれた著作物」(こんな言葉を使っている人はいませんので,ご注意ください。)ということができます。
そして,演奏されているジャズの曲は,「開かれた」部分に演奏家によるオリジナルのアドリブ演奏が補充・補完されたものということになります。
なお,一般的にはアドリブ演奏といっても,基本的なメロディは楽譜の上で指定されており,多少の編曲を伴いつつそれに従った演奏がなされます。しかし,例えばサラ・ボーンがスキャットで歌い切った「枯葉」などでは,本来の「枯葉」のメロディはほぼ跡形もなく消え失せています。
http://nicoviewer.net/nm11319800
これが「枯葉」だとすると,メロディ部分は全て開かれている,ということになってしまうのかもしれません。また,ここまでメロディを変えても「枯葉」なのだとすると,一体「枯葉」という音楽の同一性・類似性は何を基準に判断したらよいのか,という疑問もわいてきます。
それはさておき,ギル・エバンスなどは,編曲に際して「アドリブ」に該当する部分も全て楽譜で指定をしていたそうですから,このような場合は「アドリブ」も含めた「編曲」ということになります。そのような場合でなくても,アドリブ演奏も音楽の著作物になりますから,少なくともこのようなアドリブ演奏については演奏家自身が著作権を有していると考えられます。
マイルス・デイビスのアドリブ演奏を記録した楽譜,ヘレン・メリルのアルバム「ブラウニー~クリフォード・ブラウンに捧げる」に収録された,「You'd Be So Nice To Come Home To」におけるクリフォード・ブラウンのアドリブ演奏の忠実な再現などは,原曲の複製物であるのと同時に,アドリブ演奏を行ったマイルス・デイビスやクリフォード・ブラウンの著作物の複製物とも考えられるわけです。
3.開かれた著作物
このような「開かれた著作物」である音楽はジャズに限られません。現代音楽で有名なジョン・ケージの作曲した作品の中には,演奏に際しての一定の指示は書かれていても,具体的な演奏は演奏家の自由に委ねられている者が少なくありません。例えば,晩年の作品「ONE5 for piano」などは,演奏時間20分の間に45回しか音が奏でられない,「間」を強調した作品ですが,音の持続時間と音量が自由とされているなど,かなり演奏家の自由に委ねられている音楽作品です。
このような作品では,演奏家によって具体的に奏でられる音にかなりの違いが生じることになります。ここでも,実演家を単なる伝達者と位置づけることには,やや違和感が残るところです。
4.開かれた著作物と実演家の権利
このような「開かれた著作物」における実演家の権利はどう考えたらよいのでしょう。単なる伝達者とするのか,作曲家の作曲した「開かれた著作物」を原著作物,実際に演奏された作品を二次的著作物と理解し,実演家を二次的著作物の著作者とするのか,実際に演奏された作品を作曲家と演奏家の共同著作物とするのか。音楽的な見地からも議論が必要ではないかと思います。
また,音楽以外の世界でも,舞踊,演劇,TVなどでこのような「開かれた著作物」というものが存在します。このような世界における実演家の位置づけも一度検討されることが必要ではないかと思います。
以上
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